[üi]最大公約数として残る故人の記憶に寂しさを感じた
幼馴染の法事で感じた寂しさ
小中学校が一緒だった友達の法事に行って来ました。
家族親族友人が集まって故人の想い出話をするのは何よりの供養と思います。そこには故人の生きて来た証があります。
堅実に家族の為に義務を果たし愛を注いで来た生きた証が残っています。
しかし、ぼくに限らず誰もが自分の中に残っている故人の実像とは少し違う所でまとめられた「彼の記憶」に寂しさを感じているのではあるまいかと感じました。
社会人に成っても年に数度会っていました。その時のやんちゃな彼は誰の記憶にも無いのかしら?と思うと虚しさを感じてしまいます。
自分の中だけに残る故人
多重人格で無くとも誰しも色んな側面があり人によって見せる顔も違うのは普通の事ですよね。映画やドラマの様に主人公の色んな側面を見れたり、心の機微まで知ることは現実には不可能な事です。
残された者達が、それぞれ自分の心に残る彼を記憶すれば良いのでしょうが少し勿体無い気がします。
偉人の人生を小説やドラマにする人達には、こうした想いが有るのかも知れないと思います。
身内が知る必要が無くとも価値がある故人の人生ドラマ
生き残っている友人と故人の話をしても温度差があります。大人だから人によって付き合い方を分けていたのは当然でしょう。
確かに、ぼくの中に残っている故人の記憶を家族や友人と共有する必要は無いのでしょう。
法要の後の食事会の時に、法要を務められた住職と一緒に喫煙所で一服しながらしばらく話し込んでしまいました。
故人のご縁で知り合った人達が、同じ彼と付き合っていたのでは無いと云う事を少しづつ感じながらも、故人を偲び縁を大切にするのは良い風習と思いました。
子供達を育み、命のバトンを繋いだ事も人としての成果ですが、その生き様もささやかな人生の中で成し得た立派な成果だと思います。
ぼくが故人の人生をエッセンスとして誰かに伝える事が出来れば供養にもなるし刹那の個人の人生をより意義深いモノに出来るのでは無いかと感じた日でした。